赤野井探訪
赤野井町は自然豊かな地域であり、河川や周辺の緑、ホタル
等の生物に恵まれ、四季折々の季節が感じられる環境と共に大庄屋諏訪家屋敷や東西別院をはじめとする神社仏閣、祭など歴史ある地域資源が数多く残ります。
そんな赤野井町のさまざまな歴史・伝統・文化についてご紹介しています。
閼伽井
釈迦堂の西隣にある仏様に供える水(閼伽という)を
汲んだ閼伽井があります。
嵯峨天皇の頃、弘法大師が巡行の砌り、この地を訪れこの池を掘られたところ一点の濁りなき清水が噴出し、村人は弘法大師のおかげと感謝し大切にして来られました。
十五世紀後半の一向一揆に比叡山の僧兵の攻撃を受け和睦の条件として、この水を比叡山の佛前に供えることになり、それ以後この池を閼伽井と言われるようになったと伝えられています。また、この池の名が赤野井の地名の起こりとも言われています。
東別院
赤野井に蓮如上人の六男蓮淳さまの顕証寺の通寺が
あったが、教如上人が別派されると了誓、浄恵らは野栗両群60余寺の参加を得て上人のための新堂を建立された。これが別院の始まりである。
その後、寛文の頃、豚如上人の息男恵明院如晴という方が入寺され在住10数年に及び赤野井御坊大恩寺と号されたものである。
専念寺
開基は、観教(1580年没)。3世伊賀坊了誓、文禄4(1594)年に、教如上人(東本願寺12世)より、専念寺の号を賜る。伊賀坊了誓は、近江の先覚として、多くの書に取り上げられており、境内に顕彰碑が建てられている。現住職は19代目。
大庄屋諏訪家屋敷
江戸時代から赤野井一帯、小津郷の大庄屋であった諏訪屋敷。暦応3年(1340年)に諏訪円忠が足利尊氏に従って信州から赴任して以降その子孫が代々この地方をまとめて来た庄屋の屋敷跡。当時の特徴をよくとどめ、大切に保管されています。
大庄屋の屋敷建造物がそのまま残されている例は大変貴重であり、市の重要文化財や日本遺産にも指定されており広大な敷地に江戸時代の庄屋屋敷の特徴が残され、まるでタイムスリップしたかのような懐かしい場所であります。
西別院
赤野井に1339年(暦応2年)本願寺第3代可覚如宗主の長男存覚師が草庵を構え、念仏をひろめられた
のが始まりとなっている。1774年(延享元年)当坊舎が著しく荒廃したので、旧栗田郡、旧野洲郡の法中、門信徒が一致協力、10年の歳月をかけて、1754年(宝暦4年)再建されたのが現在の大伽藍である。
近江における室町時代の浄土真宗布教活動の中心で、
蓮如上人ゆかりの寺院。年に一度『虫干し法要』の
両日に寺宝の数々が公開される。
福正寺
蓮如上人より寛正5年(1464)赤野井惣門徒に下付された親鸞聖人影像が現存する。
特に第14世僧宣は慶応2年丙寅12月西本願寺出仕西本願寺執行として同寺の北側道路開削や多大の功績を残し、「内陣の席」を仰せ付けられ、従一位九条道孝より孝明天皇拝領の花器花台を拝受した。
常照寺
開基安井久左衛門満芳(十二里五百石領代官)は文明2年(1470)蓮如上人に帰依し、唯念と名付く。草庵、兵火にかかり宝物等消失したが山科本願寺におもむき実如上人に拝謁し、親鸞聖人画像を賜る。
鐘楼は大津近松別院より拝受移築したものである。
釈迦堂(常楽寺、将監堂)
仏像は法界の定印(手の指の組み方)をした阿弥陀如来にて釈迦如来と解釈してよい。天台宗の影響の可能性がある。織田信長の兵火にあったが、幸いに仏像は焼失を免れた。
地蔵菩薩立像一躯もあり閼伽池より出現の伝説がある。
諏訪徳治は慶長7年(1602)に隠居所とした記録があり、里人は之を将監堂と称した。西隣には、仏に供える水(閼伽という)を汲んだ閼伽井があり、毎年夏には蓮の花の満開がみられる。
現在の釈迦堂は、平成25年に建替えられたものです。
天満宮
赤野井には、天満宮と小津若宮神社があり毎年祭礼が行われている。『天満さん祭』は9月の第3日曜日で、本社に神饌を供え玉串奉納、お湯立ての神事が行われ神輿が出る。以前は、『ソウモク』と言って10月3日が祭であった。
私たちの祖先は、人生行事のすべてのと、生活の
ための種々な営みの中に踊ることは、神への祈りで
あり、楽しい遊びでもあったのだと思われる。
祭神は、菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)、天手力雄命(タヂカラオノミコト)、栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)、天鈿女命(アマノウズメノミコト)である。
長刀祭りは長刀踊りともいわれ、国選択無形民俗文化財に指定されています。小津、玉津の両学区十一町の範囲で毎年順番に踊りと神輿担ぎを担当し、八年に一度廻ってきます。
この祭りには、一列になって行進する『長刀振り』とササラ・笛・鉦(しょう)・鼓(つづみ)・太鼓などの囃子(はやし)に合わせて音頭を取りながら踊る『田楽踊り』とがあります。
千四百年の昔、欽明天皇のころ、琵琶湖の氾濫により湖中へ流出した神霊を迎えた際、氏子らが踊りを奉納したのが、この祭りの始まりとの言い伝えです。
蓮如堂
寛政6年正月9日、山門の大谷破脚によって本願寺蓮如は野洲、栗太の門徒をたよって難をさけた。そして、3年の間金森に居住した。金森在住の間、蓮如は近在の道場を転々としていたという。その道場とは、蓮如の教化を受けた人々が邑ごとに信仰聞法の道場をつくり、本願寺から下附された名号本尊などを安置していたものであった。
浜の蓮如堂は蓮如上人ゆかりの地であり、箸塚は、蓮如が箸代わりに使った柳の枝を、地面に突き刺しておいたら、それが生えついて大きなしだれ柳の木になったという、昔話が残されている。
小津若宮神社
5月5日の長刀祭の杉江小津神社本宮からの御旅所となっています。小津神社の長刀踊りは、その歴史も古く、その長い年月神まつりとして温かい伝統の豊かさと誇りを今日まで継承されたものである。長刀祭りは庶民の祭りの芸能で集約された形で伝えられたものである。祭礼にあたっては、各町の当番で『長刀踊り』または、『神馬』などを奉納する。8年に一度当番がまわってくることになっている。
5月4日の宵宮は町内の祭りで、神輿を迎えて来て本祭同様に町内を練って祝う。
祭神は、玉津姫命(タマツヒメノミコト)です。